昭和四十七年五月二十三日 朝の御理解

X御理解第八十一節 氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ、気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。

 信心の初心の方達は、信心は有難いものだとわからせて頂く、ところが段々信心をきついものに思ったり、しゆるしいものにしてしまう、その当たりのところで、これは下さった御教えだろうと思う、誰でもここに一週間でも続けてお参りが出来ますと、本当に信心ちゃ有難いですね、けれどもまあ本当の有難いもんじゃない証拠に、いつの間にか又、信心が忘れられてしまうようになって、そこに何かきっかけがあると、そこから信心を始めるといったようなところを繰り返しながら、信心え入っていくのが普通ですね。
 そこでその私、思いますのにこれはまあ自分の信心から、それを思うのですけれども、これは金光様の先生になったんだから、一生涯金光様は、ついてまわらっしやる訳ですよね、しかもそれをいうなら職業ですから、いやがおうでも、金光様はいいよらねばならない、といったような信者、先生がどのくらい多いかわからないですね。
 昨日もある教会の先生のことをお届けなさる方があったんだけれども、もうやっぱり五十年近くの教会、それで息子さん達も何人かおられるけれども、皆なそれぞれ他に就職をされたり、いろんな技術を身につけたりして、もう金光様の後は継ごうとはいれんわけですね、それでも末の娘さんが一人おられるそうですけれども、そのひとに養子でも取ろうかというて、そんならお道の教師ならいやだという、結局だからお父さんがやがて七十近くらしいですけれども、このままその教会が絶えるのではないかと、まあ危ぐされておる訳でございます。
 それでまあ、ここにも若い先生方が沢山できよんなさるけんで、ここの修行生の先生方をひとつ養子にでん頂けるような方はないじゃろうかと、ゆうような意味のことでした。そして、その話を聞いてみると非常に頭のいい先生だそうです、若いときから、ですから非常に頭もいるし信心も熱心だったからこそ、金光様の先生にでもなられた訳でしょうけれども、大して人が助かる訳でもない、やっとまあ教会が維持されておるだけの教会でね、いわゆるお父さんもお母さんもそうした信心の苦労をみておりますから子供達が、ですからその方達の例をとりますとです。
 もう、それこそ、お道の教師になられて五十年近くも、もう毎日毎日神様え向うて、そんなら教会の生活をしておられるから、もうズーッとこの坂を登り続けてござるかというと、そうじゃないという事なんです。
だから時には信心を止めてもですね、やはりその次ぎには、もっと生き生きした神様を頂くという信心の方がまだましですよね。まあ例えば、五十年間なら五十年間信心を続けておると、ただ続けておりさえすればよいということではないと思う、私は、どのへんが九里半やらわからん、だからこれはそれぞれに感じる事ですけれども、今こそここが九里半登ってもというところだなと感じて、そこを乗りきらして頂く信心をさして頂く体験がね、まづ積まなければいけないと思う。
 そこのところをですね、しだごだで通っての五十年間であったら、その五十年間というは大した事じゃないです。人も助からん自分の大して助かっていない、そしてもうあきらめに似たようなものがです、感じられるという事なんです。金光様の信心はそういうあきらめといったもんじゃない、これはもう私が思いますのですけれども、おそらく死るまでそれこそ、?から次ぎの信心を追求させて頂くことだろうと、こう思うのです。
 私が最近特に思いますことはね、例えば、千人ものお参りがあるといった教会が日本にも何軒かあります、そういう教会の先生はどういう信心をしてござるだろうか、私は最近しきりにそれを感ずるです。それは言うておられることは私の方が本当な感じがするんですね、私のいうておる事が本筋のごたる、けれどもこの程度だもの、してみると表面にはああいうておられるけれども、その内容的にですね、それだけのおかげを受けられる内容を持ってござるか、どのへんのところだろうかと、いつも聞き耳立てるような思いでね、まあいうなら研究させて頂いとる。
 ですからこれはもうおそらく一生ですね、おかげで信心をゆるめるような事は、自分ではなかろうとこう思います。それがです、どういうことでなからにゃならんかというと、いつもやはり初心の心、お参りする方達がしばらくお参りすると信心ちゃ有難い、今まで聞いたこともないお話を聞く同時に又、これはおかげと思わなきゃおられんほどしの体験も生まれてくる。ところがそういう素晴らしい、例えばそんならお話であっても、段々それが飽きてくる訳ですね、美味しいものを毎日頂きよると、その美味しいものが美味しくなくなってくるようになる、おかげもハッキリしなくなってくる訳です。
 それでも信心はやめられんといった信心が続いておるという事ではなくて、私共が日に日にいわば新な信心といわれる新な信心初めの間、生き生きとした金光様が唱えられておった自分の信心が巧者になれば成程やはりそれに新なものが伴うてくるという、新な心が頂けれるという、そういう信心を何とか身につけていかねばならない。そこで例えば本当の、成程金光様の御信心がわればわかるほど、いわゆる本当の信心というか、真の信心を限りなく身につけさせて頂こうという願い意欲、もうこの位わかっておるからとか、この位わかったからというような心がお互いようですね、私はここで御取次させて頂いて感じることは皆さんの上に。
 まあ欲が無いといや欲が無いのですけど、それではね久里半登ったときにやれやれと安心しとるのと同じことです、そこのところをひとつ乗り越えさせて頂く登り切らせて頂く信心を頂きたい。新しい信心の知識が身についてくるということが楽しみであると、同時に金光様の御信心はそういう今までわからなかったことが、わからしてもらうというようなおかげを頂いたら必ずおかげが伴う、かげが、ですから本当は油断もスキもできんのですけれども、そういうと大変厳しいようですけども、そんなことでもない。
 昨日、杷木の教会から市川さんという方が参ってこられた娘さんがチョッといき遅れた感じ、それで親心としてどうでも縁につけたいという願いをいつもお参りするたんびに、そのことがお届けがあっておりました。ところが、そのこの前からお参りをさせて頂いてから、御理解を頂いてから帰えらしてもらう時に、本当にこれを自分の娘と思うとるけ心配になると思うた。もう本当い合楽では一切が御事柄という御の字をつけての、その時にはね、黙って治めるという意味の御理解を頂いて帰られたらしいのですよ、ところが、その、あんたが、そげなこっじやけんで、どこからでももらいてがなかたいというごたるふうなことを平気でいうておった訳なんです。
 ところがその本当に自分の娘ではない、神様の氏子としての見方それから、そのよかれしと思うて娘にいうておったことが間違いであった事がしみじみ悟ったという訳ではないだろうけれども、本当にこれじやおかげ頂けんはずだと思うて帰ったと、そしたら先生不思議な事が、あちらは奥さんが小学校の先生を長くなさっておる、それから御自分は杷木の郵便寄局長を長く務められた方、それがですね同じ奥さんは学校の先生御主人はどこどこの郵便局長をしておられるという所から話があってですね、是非見合いをしてくれという話があった。
 それから次々と見合いをしてくれという話があるんですけれども、まあこれが嫁入るか入らんかわからんばってん、そげな働きが起こることだけは事実のごとありますと昨日いうておられる。自分の思いかたがですね、自分の嫁と思うておったことが神様の氏子と、だから神様にお任せする親がそのことにあまり心配なあまり、いろいろいうことがかえって神様の、お前が、そげん心配するごたるなら、お前がいっとき心配すりやよかたいというて神様が、突き放しとんなさる感じを感じたわけですね。
 自分の娘だから、自分が心配する当たり前のようですけれども、そんなら神様には、どうぞどうぞとお願いしながら、お前が心配してよかごたるなら、お前が心配してとこう神様から今までは突き放されておったようなものをです、そこんところをちょつとぬいて、これは神様の子であるとわからして頂いたら、神様と直結したようなおかげがです、早速表れてきておると、今まではそんなことはなかつた。申し込まれることもなかった。 しかも一番神様のお働きと思わなければおられなかった事は、自分の所と同じ環境にある、母親が学校の先生で、そしてお父さんが郵便局の局長さんをしておる、これはまるっきりうちと同じごたるね、というような感じの中に、神様のお働きを、感じんわけにはおられませんでしたというてお届けがありました。そういう信心がですね、やはり私は新なものが感じられます。今までは感じておった事とは違った感じ、そこから何かこの生き生きした働きが始まるですね。
 今日私はこの御理解八十一節というところを初心といういつの場合でも神様の方え姿勢が向けられてより本当な信心を、より有難い信心を頂かしてもらおうという意欲というものが私は初心だと思うです。そういう初心が欠けてくるところにです、ここが九里半と思われるような時に、その九里半のところを向こうえ登りきる生き生きとしたものがありませんもの、だから八十一節とありますから、これは私はなるほど八十ということを段々おかげを頂いてきたという意味であるならば、それにはいつも、この第一歩からという、この気持ちが私共の心の中にあらなければならないというふうに今日は感じて。
 九里半登ったからというて安心はできない、ここで確かにですね、商売のいうなら本当に、その日その日を願うていかなければならないというのは生き生きとしたというか、一生懸命の信心ができますけれども、それを越えてやれやれ食べることにもこと欠かん家庭も円満で、ことなかれでいっておるとですね、どうしてもマイホーム的な心が起こってえすね、信心の確かにゆるむという傾向があります。
 だからこそ神様がいっまででん難儀をさせなさるといった感じがありますけれども、そういう間にです、いわゆる本当の信心を身につけさせてもらうおかげを頂いておかなければ、そしてこの信心が本当だとわかったら、しかもそれは限りなく、それこそ踏まずたゆまずこの信心を、より本当な新なものを頂いていこうという願いが、いつも燃えておりますならば、そこまで信心を進めておりますならば、そういう心配はないとこう思うです。ひとつの事の例えばおかげを頂いてやれやれというところに安心のおかげというかね、向こうえ降りたら安心じゃとおっしやるというのは、これは私共ではなく神様が安心して下さるのだと思うですね。
 この氏子はこ処までの信心を身につけたから、もう大丈夫だと神様が安心して下さるそういうところまで、信心をひとつ身につけていかなければならん、為にはまずそんなら、この信心が本当な信心だと昨日の晩にお話したことですけれども、私がお夢を頂いた。ある女の先生の所の大変御比礼の立つ教会なんです。そこが丁度大祭の翌日のようで後かたずけがあっとるその後かたずけに集まっておられる方達が、もうりっぱな信者さんばっかりである、そういう感じのお夢である。
 ところがその勝手の方にですね、こんな素晴らしい皿を普通使いよんなさるとじゃろうか、というような、まあ私が見たところでは、古伊万里と思われる程しの古い古い立派な皿なんです。それやら床の間に持っていきたいような立派な古い壺が、もう炊事場の所に置いてあるのですよ、そういうようなお夢を頂いた。それからというて、お広前にまいりますと、その先生が一生懸命御結界でですね原典の源氏物語といった感じのものを、読むことの稽古をしたりしよんなさるところでした。
 それから私は思うたんですけれども、その人が助かるということは本当なことではなかっても、助かるということですね、いわゆる本当なことでないというても、本当のことだから助かるのですけれども、やはり本当の本当ということがある、その本当の本当というわけあんですよね、例えていつも例えとりますけれども、先生が病人が参ってくりやさすってやったら助かる、それで信者はどんどんふえるといったような、例えば、ことであったり非常に御祈念力が強うしてもう一生懸命拝んでやんなさる、それでやっぱ人がどんどん助かる、だからそれがウソではない。
 けれども、それは本当の事ではない、今、合楽でいわれとる事が、いうなら本当のことだと思うのです、だから本当の事がわかってなくても、おかげを頂きもすれば、人もたすかる、けれども本当のことがわかって助からねばいけないというのが私の持論なんですよ、ですから丁度お夢の中に見る、これは古伊万里と思われる見事な鉢をね、これは古伊万里と知ってないわけなんです、だからそれを粗末にしてある訳です。
 しかもそれを、そんならこれは古伊万里ですよと教えてもらっただけじゃいけんのです。ここでもそうです、これが本当の信心ですよとわからして頂くだけじゃいかん。そんなら古伊万里のそれを眺めて楽しまれるところまで、その焼き物なら焼き物というものが研究されなければいけない、私がいよる事が金光様の信心、これがもう世界一の信心だという意味の事を、今ごろは仏教とかキリスト教を例えをとって話を聞けば聞くほど、私自身も神様から、御理解を頂けば頂くほどなるほど教祖金光大神が教えられてきたことが一番本当だとわかってきた訳です。
 その本当な事がここにあるのに、その本当のことをわかろうとしないでただ人がどんどん助かりさえすれば、人がどんどん集まりさえすれば、というようなこともできるんですけれども、これではいけない長続きしないということ。皆さんでもそうですよ、私がいかにこれが本当だということを教えて、そんなら本当だと皆さんが合点してくれるとしましょうか、なるほど、合楽でいうとることが本当だと皆さんわかるでしょう。それは、これは勿体ない、あんたこれは古伊万里ばいというて教えられたも同じなんです。
 これはもう金にどんするなら、いくらがたあるじゃれわからん、これは見事な骨董価値があるかしれんと教えられただけじゃいけん。でなかったら、いうなら犬が金見たようなもので、その何故古伊万里がこんなに値打ちがあるか、またそれを鑑賞させてもらう鑑賞眼というものをです、自分が身につけていかなければ、それを大事にすることもよう致しません、ですから、ここで皆さんが、金光さまの御信心が本当だということを、ここでわからして頂いて、その本当の信心がです、自分の身についてまいりますとです、これはもうそれこそ、楽しいものであり有難いものであり、信心も同じこと。
 新な心でこれはもう本当に好きになるというか、本当のことがわかると言うか、私共がよいものの坪なんかを庭なんかにおいてあると、今ひとつ置いてありますけれども、いいなと思うて眺めるです、そのいいなという心が、もう新な心なんです、あかん、だからそれが本当なものでないとあくです。やはり、ですから信心でもです、そんなら合楽の信心が本当のものだとわからして頂いただけではなくて、それが何故有難いのかと古伊万里が何故値打ちがあるのかと、いったようなことがわからして頂くことによって、いわゆる楽しさといったようなものがあるようにね、そういう信心が身についてくることが、私は大事だとこう思います。
 ここはもう気が緩めようがなくなりますよね、そういうことになると、先生が御結界で先生としての教養を身につけとかんならん、というてまあ先生らしい、いうならば教養を身につけるというか、やっぱり、それも大事でしょうけれども、その程度にしか先生が感じてないとするならね、それはおかしいです、やはり、成程どこからみても金光さまの先生、教養だけが身についておる、だからそういうことも感じておられる訳ですね、私が夢の中で見る先生は、普通の者は読みきらんごたる本を読みきったり、書いたりしよんなさる、それはそんならどういうものかというと信心には何の係わり合いもない、本当いうたら字は一字も書ききらんでもです。
 ある所の先生なんかは、やっぱ女の先生ですけれども、〇〇を書いたり△△を書いたりお届け帳にしちゃる〇〇を書いた時には誰さんと決めちゃるらしい字書ききらんから、それでも人は助かるからね、昨日、豊美に病院に入院しとった方が八十くらいのおばあさんが豊美の話を聞いて大変感激してですね、それから金光さまの信心になるようになってわざわざ本部にお参りされるようになった。それで退院したからお礼に豊美の所にいかれたげな、けれどもこちらの方にみえとるというので、こちらの方えお礼の手紙がきてる訳です。
 もう、それは、それこそ、水くしの後の美しい、巻紙でそれは奇麗な字が書いて手紙できているんですよ、ところが肝心要の豊美が全然読みきらん、あんまりきれいに書いちゃるもんじゃけ、だれにでも見せるけれどもだあれも読みきらん、私は読みきるとです、それこそ金光さまの先生としての教養を身につけるわけではないけれども、好きでやはり勉強しとりますからね、私はスラスラと読むのです、けども田主丸から十人ばっかり帰って来たから私が試験ばするというて、読ませましたけれどもだあれも読みきりません、あまりに見事に書いておるからですよ。
 そげな風でその、やはり勉強しとれば書きはきらんでも読むことだけは出来る、だからどうしてもおたがいの信心もです、信心がいよいよ本当な事というのがまずわかって、そしてそれが、どういうところがそんなら今私が合楽の信心がね、もう本当に世界第一だと、あらゆるどういう宗教よりも一番素晴らしい信心だといっておることをです、皆さんにどういうところですか、一番素晴らしいところはというてもね、皆さんあすーっと読みきらん、わからない人が多いのじゃなかろうかと思うのです、これだけ私が話しておるけれども。
 ですからそれを少しづつ身につけていくということがまず大事なんです。そしてそれが身についたらです、信心というものは、もういよいよ、例えばそんなら骨とう好きの人が本当のものがわかって、本当のものを手に入れた時の楽しみというものがあるようにです、もう九里半登ったからこれでよかといったような事がけしてないもう限りなく頂いていこうと、私共が今考えておりますように、どんなに考えても不思議あそこでは、どうしてあんなに沢山の人が助かるだろうか、そのもとはどこにあるのだろうかと思うて、もういつもそこんところに心を使わさせて頂いて。ははあ、ここにこういう素晴らしいものがあるということをわからして頂いたら、又、次のそういうものが生まれてくらだろうと思います。
 もう向こうえ降りて、例えばやれやれという気持ちが出るはずがない、ところが段々信心させて頂いて、あれが成就してこれが思うようになってまあ自分のいうならば楽なことが出来るようになると信心のほうまで楽になってしまう、そこにまた、どうにもできない問題が必ず起こってくるです、私は今日ある人の事をお願いしよりましたら、その事を頂いた、その人が一番初めに、苦しんだ状態の時の姿を頂いた、今はそんなこっじゃない大変おかげを受けておる、ですからそういう意味での初心じゃつまらないでしょうが、初心というのは一番初めの信心初めの幼稚な信心という意味じゃないです。
 初心というのは、どんなに巧者になっても心が新であるということなんです。そういう信心を身につけた時です、私は神様がもうあの氏子は大丈夫と安心して下さる、その安心が私共の方え照り返ってくる、それを安心の大みかげというのじゃないだろうかと思うのです。気を緩めると直ぐにあとえもどるぞとあるのでございますから、そこまでの信心を身につけてない人達に対する、だからこれは御理解だと思います。 ですから、いうならば今日、私が申しましたようなところまで信心を身につけられるとです、神様にそういう不安な思いをさせんですむ、又すぐにもどることのない、もうとに角前進する以外にない信心を一生がかりで進めて行きたいと思います。    どうぞ